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藤田嗣治(ふじたつぐはる)

藤田嗣治は、1886年(明治19年)11月27日に東京市牛込区(現・東京都新宿区)で生まれた洋画家である。父は軍医で、森鴎外の後任を任されたほどの人物である。

幼少期から画家となることを志しており、フランスへの留学を希望していたが森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)に入学し黒田清輝に師事。しかし、印象派に影響を受けた黒田氏をはじめとする「外光派」と自身の方向性が合わず、文展では落選を繰り返す事になる。

1913年に念願のフランスへと渡り、モンパルナスで居を構えるとピカソやモディリアーニといったエコール・ド・パリを代表する画家たちと交流を深め、日本とは比べものにならないほど自由に絵筆を動かせる環境に歓喜し独自の画風を追求し始める。日本画の技法と油絵の融合により、とりわけ大絶賛された「寝室の裸婦キキ」に代表される「乳白色の白」を生み出し、1919年のサロン・ドートンヌに出品した6作品が全て入選。独特のファッションや数々の奇行から、「Foujita」の名をもじって「Foufou(フランス語で「お調子者」を意味する)」と揶揄されたりもしたが、一躍エコール・ド・パリの寵児ともてはやされるようになる。

第二次世界大戦勃発により帰国すると陸軍美術協会理事長に就任し、軍報道部から戦争画の制作を要請され、「アッツ島の玉砕」などの大作を積極的に描く。それらは単純に国民の戦意を鼓舞するのみならず、戦争の悲惨さを生々しく表す非常に芸術性の高いものであった。しかし、それ故に終戦後は「戦争に荷担した戦犯」と激しく非難される事になり、失意のうちに日本を去り、二度と帰国することはなかった。

再びフランスへ戻ると、日本国籍を廃しフランスへ帰化、カトリックの洗礼を受けパリから約30kmほど離れたエソンヌという小さな村に住居兼アトリエを構えて暮らし始める。この頃から代表的モチーフである猫と少女を多く描いている。また、自身のパトロンが経営するシャンパン醸造所の敷地内に設計から全て一人で構想を練った礼拝所を建て、この時からフレスコ画にも挑戦している。

1968年1月29日、癌のためスイスにて逝去。フランスにてレジオン・ドヌール勲章を受章し、現在においてもフランスで最も有名な日本人画家である。

 

略歴

1886年  東京に生まれる。
1910年  東京美術学校西洋画科を卒業。
1913年  渡仏。ピカソやモディリアーニ、スーチンらと交友しつつ研鑚を重ねた。
やがて乳白色の平滑なマチエールに面相筆による線描を生かした独自の技法を編み出す。
1919年 サロン・ドートンヌに入選。会員に推挙される。
1921年  サロン・ドートンヌ審査員となる。
1923年  サロン・デ・チュイルリー会員となる。
1929年  一時帰国。
1930年 再び渡仏。1933年までパリを中心に中南欧各地で制作。
1934年 二科会会員となり、第21回二科展で特別陳列される。
1937年  秋田で大壁画『秋田の行事』(秋田市平野政吉美術館蔵)を完成。
1939年 三度目の渡仏。
1941年 帝国芸術院会員となる。
1943年  朝日文化賞受賞。
戦争画も描いたが、戦後は複雑な日本画壇と離別。
1949年  アメリカ経由でフランスに渡り定住。
1955年 フランスに帰化。
1956年 カトリックの洗礼を受けてレオナルド・フジタと改名。
晩年はランスのノートル・ダーム=ド・ラ・ペ礼拝堂の設計、壁画制作に没頭。
またガラス絵の制作に傾注した。
1957年 レジオン・ドヌール勲章受章。
1959年  ベルギー王立アカデミー会員となる。
1968年 チューリッヒで歿。

 

また、藤田嗣治についてより理解を深めるべくその足跡を追った旅行記を「新着情報」にて公開しておりますので、ぜひそちらもご一読下さい。

 

●藤田嗣治の足跡を追う旅~フランス編~

●【2014.7.10】 パリにて vol.1

●【2014.7.10】 パリにて vol.2

●【2014.7.10】 パリにて vol.3

●【2014.7.11】 ランスにて vol.1

●【2014.7.11】 ランスにて vol.2

●【2014.7.11】 ランスにて vol.3

●【2014.7.13】 エソンヌにて

●【おわりに】 「藤田嗣治の足跡を追う旅」を振り返って

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