中山忠彦は、1935年(昭和10年)3月20に福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれた洋画家である。戦争の激化に伴い両親の出生地である大分県へ疎開し、県立中津西高校(現・中津南高校)へ進学する頃に木版画家である武田由平氏と出会い、絵画に興味を持ち指導を受ける。在学中に県展へ出品し入選するなど、若くして才能の片鱗を見せ始めていた。
高校卒業と同時に上京し、かねてから強い影響を受けていた洋画家・伊藤清永に師事し阿佐ヶ谷洋画研究所へ入る。同年に伊藤絵画研究所が開設し、世話役として入門。第10回日展にて「窓辺」が初入選、白日展にて「裸婦」「黄衣」が船岡賞を受賞するなど画壇にその実力を認められ、入門後4年で独立。翌年の白日展に「群像」を出品し、白日会会員に推挙される。
画家を志し始めた頃から人物画を主なモチーフとしており、初期には裸婦や人物群像なども描いているが、30歳で結婚して以降の作品はヨーロッパのアンティークコスチュームに身を包んだ良江夫人をモデルとしたものが大半を占めている。「良江は私の外部にある私の内部です」と本人が語るように、一つのモチーフを描き続ける事によって単なる写実的表現に留まらずモデルの内面的美しさや衣装の持つ歴史の重みに対する崇敬の念が作品から伝わってくる。
1980年(昭和55年)には白日展に出品した「妝う」(読み・「よそおう」)が、1996年(平成8年)には日展に出品した100号の大作「華粧」がそれぞれ内閣総理大臣賞を受賞。1998年(平成10年)には「黒扇」にて日本芸術院賞を受賞。日本芸術院会員となり、日展理事長、白日会会長も務めるなど現代日本洋画界の重鎮である。