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熊谷守一(くまがいもりかず)

明治-昭和時代の洋画家。1880年(明治13年)4月2日 初代岐阜市市長であり衆議院議員であった熊谷孫六郎の三男として岐阜県中津川市付知町に生まれる。1900年(明治33年)に東京美術学校
(現・東京芸術大学)に入学しその後首席で卒業。1909年(明治42年)の『蝋燭』が文展で入賞する。
1922年(大正11年)に42歳で結婚し5人の子供に恵まれるも、貧乏の中3人の子供を亡くしている。
次男の陽の亡骸を絵に描いた作品、1928年(昭和3年)『陽の死んだ日』。
晩年は東京都豊島区の自宅(1985年に次女・熊谷榧が《熊谷守一美術館》として開館)で家族や動物たちと過ごし、わずか15坪の小さな庭で虫や花、動物などを描き続けた。
独特の画風である面と線だけで構成された1971年の「赤蟻」等高い評価を得ている。
生涯作品のテーマとして自然のもの 、また裸婦など生命のあるものを描いている。洋画の他、日本画や書、墨絵等も多数残しているが主な作品は4号の油絵がほとんどを占めている。
写実画から始まり、表現主義的な画風を経て、洋画の世界で抽象度の高い「熊谷様式」といわれる具象画スタイルを確立した。
「これ以上人が来てくれては困る」と、文化勲章の内示を辞退する等「画壇の仙人」とも称される。
代表作には「裸婦」「ヤキバノカエリ」「種蒔」「土饅頭」「化粧」「白猫」「猫」等、著書に随筆集「へたも絵のうち」「蒼蠅」があり、1977年(昭和52年)8月1日 肺炎で死去するまで
約70年間にわたって絵を描き続けた。享年97。