あなたとアートをつなぐ、名古屋の画廊 松徳

三岸節子(みぎしせつこ)

三岸節子は旧姓を吉田といい、1905(明治38)13日に愛知県中島郡起町(後の尾西市、現・一宮市)に生まれた洋画家である。

名古屋市の淑徳高等女学校を卒業後、かねてから興味のあった油絵を学ぶべく上京。洋画家の岡田三郎助に師事し、女子美術学校(現在の女子美術大学)の2年に編入し、首席で卒業。同年9月、当時新進気鋭の画家であった三岸好太郎と結婚。翌年には春陽会第3回展に初出展し入賞、画壇デビューを飾る。

結婚後わずか10年で三岸好太郎が死去し3人の子供を抱え未亡人となるが、絵筆を折ることはせず画家として生きる道を選び、戦時中も疎開せず静物画を描き続け画壇での地位を徐々に確立していった。戦後、洋画家である菅野圭介との「別居婚」から離別を経て、フランスに渡り風景画に挑み、優れた作品を生み出した。大胆かつ重厚な筆致と明確な色使いをもって静物画や風景画など様々なモチーフを取り上げたが、やはり三岸節子と言えば「花」である。自身を「花の画家」と呼び、生涯に渡って描き続けた花々からはその画風の変遷が如実に見て取れる。また、絶筆となった作品も100号の大作「さいたさいたさくらがさいた」である。それは幾多の困難をも乗り越え、画家としてぶれることなく突き進んできた彼女の人生そのものが最後に満開の花を咲かせたかのように思わせる。

1998(平成10)113日に尾西市(現:一宮市)三岸節子記念美術館が生家跡地に開館、その翌年1999(平成11)418日未明に急性循環不全により死去。94歳の大往生であった。

日本人の女性洋画家としては初となるワシントン女性芸術美術館での回顧展や、女性洋画家では初の文化功労者となって女性画壇の地位向上に貢献し、また没する直前まで筆を置かず新作を描き続けた力強さは画風にも表れ、鑑賞者の心に深く訴えかける。

 

略歴

1905(明治38) 13日、愛知県長島郡起町(元・尾西市、現・一宮市)に生まれる。

1921(大正10) 高等女学校を卒業し上京、岡田三郎助に師事。本郷洋画研究所に通う。

1922(大正11) 女子美術学校(現・女子美術大学)2年に編入学。

1924(大正13) 同学校を首席で卒業、三岸好太郎と結婚。

1925(大正14)  春陽会第3回展に初出品、「自画像」など初入選。婦人洋画協会結成に参加。

1932(昭和07) 春陽会を離れ独立美術協会へ移る。第2回展に出品、入選

1934(昭和09) 夫・三岸好太郎が死去。第5回独立展で「室内」他が独立賞を受賞する。

1936(昭和11) 長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成。

1939(昭和14) 新制作派協会に加わり会員となる。

1945(昭和20)  戦後の個展第1号として、銀座・日動画廊にて「三岸節子展」を開催する。

1947(昭和22) 女流画家協会の創立に発起人として参加(後に退会している)

1948(昭和23) 洋画家・菅野圭介と再婚(別居婚)

1951(昭和26) 「梔子」が第一回目となる昭和25年度芸能(現在の芸術)選奨文部大臣賞を受賞。

1953(昭和28) 菅野圭介との結婚を解消する。

1954(昭和29) 初の渡仏。一年のあいだ滞欧。

1967(昭和42) 収集した好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。

1968(昭和43) 再び渡仏、長男の洋画家・三岸黄太郎一家と共に南仏カーニュに住む。

1969(昭和44) 女流美術家による総合展〈潮〉の結成に参加する。

1974(昭和49) 仏ブルゴーニュ地方の小さな農村ヴェロンに移り住む。

1977(昭和52) 名古屋・ヒマラヤ美術館が開館、三岸節子記念室が開設される。

1980(昭和55) 日本橋・三越で画業55年記念展開催。第4回長谷川仁記念賞を受賞。

1986(昭和61) 秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章。

1988(昭和63) 尾西市(現・一宮市)名誉市民に推挙される。

1989(平成元年) 帰国し、神奈川県大磯に定住。

1990(平成02) 1989年度朝日賞を受賞

1991(平成03) ワシントン女性美術館において日本人作家として初の回顧展を開催する。

1994(平成06) 女性洋画家では初の文化功労者となる。

1998(平成10) 愛知県尾西市の生家跡地に尾西市三岸節子記念美術館が開館。

1999(平成11) 418日、急性循環不全により神奈川県大磯で死去。享年94歳。